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歌うことを選んだミュージシャン
忌野清志郎(本名、栗原清志)
言わずと知れたロック歌手。
♪「デイ・ドリーム・ビリーバー」
♪「雨上がりの夜空に」
などの名曲を残し、2009年“ガン性リンパ管症”のため58歳で天国に逝ってしまった。
その生き方や、言葉はいなくなった今でも変わらず、ファンの心の中に生き続けている。
民間療法の効能を信じ、正攻法でいかなかったことが命を縮めたのでは…とも言われている。
ガン性リンパ管症はガンによってリンパ管がふさがり、肺が水浸しになる症状で水に溺れたときのように、酸素を身体に取り込めず非常に苦しいという。
肺ガンでガン性リンパ管症になると数日で死んでしまう人がほとんど、だそうだ。
ガン摘出より声を選んだ清志郎
つんくは“声帯摘出手術”を選択しました。
しかし、清志郎は歌えなくなることを恐れ手術をしなかった。
その後、初めは放射線治療や抗ガン剤を選択するも、放射線治療は胃に穴を開けて流動食生活をしなくてはならない恐れがある。
それをすると唾液が出なくなりステージで歌うのは困難と聞かされた。
なので、入院2週間で放射線治療も拒否し、代替療法を選択する。
彼は何よりも、歌うことを望んだから…。

清志郎が選んだ代替医療とは?
代替医療は、三大療法と言われる手術、抗がん剤治療、放射線の代わりに用いられる医療の事である。
科学的・分析的な近代医学に頼らず、患者の心身全体の調和を取り戻そうとする医療。
具体的には。。。
・食事療法、
・温泉療法、
・霊の力を援用するなどの民間療法
・漢方医学
などなど。
清志郎が行った代替医療は
玄米菜食法(食事療法)でした。
肉を摂らず、玄米・野菜を中心に摂取する食事法である。
医者は放射線治療をしないと全身に転移すると言ったが、清志郎はそれを拒否した。
抗がん剤と玄米菜食法などをしながら一時は、完治したかに思われた。
リハビリに、サイクリングやライブに飛び入り出演し、『完全復活祭』のライブを行う。
しかしその後、ガンの転移が判明。
清志郎の喉頭ガンは治っていなかったことになる。
喉頭ガン患者の喫煙率は97.3パーセント。
そういえば忌野清志郎は1日30本以上吸う愛煙家でしたね。
このペースで40年間も吸い続け禁煙したのが亡くなる1年前でしたか。
時すでに遅し、だったのかもしれません。
代替療法の効果
代替療法は医学的に効果が証明されていないため、あくまで補助手段として用いる方が良いとされていました。
清志郎も自分の体がガンにむしばまれていく現実。
それでも歌をあきらめたくないという気持ちの間で揺れ動き、治療についても迷っていたのではないでしょうか?
そしてもしかすると、玄米菜食に頼ったのもわらにもすがる思い、だったのかも知れません。
最後の最後まで歌うことを諦めなかった清志郎。
信じがたい話だが、亡くなる前日までメンバーと談笑していたという。
血圧が急に下がり、最後は眠るように穏やかに亡くなったとされていたが
医師によると、ガンの末期状態で亡くなる時は意識を失うので、「眠るように亡くなる」という表現は間違ってないそうです。
彼は歌うことを選んだからといって生きることをあきらめていたという訳ではないと思ます。
清志郎にとって歌うということは生きることだったのではないでしょうか。
清志郎から発信される曲は社会問題や平和運動に関するさまざまなメッセージが入っています。
それを歌い、伝えることは彼の生きた証。
まだまだ伝えたいことがたくさんあったはずです。
清志郎の治療の選択は正しかったのか?
ガンの三大治療をしていればまだまだ生きていたのでは…
そして、もっと新しい曲も生まれていたのでは、そう思ってしまいます。
でも一番そう思っているのは清志郎本人なのではないでしょうか?
ガンの治療法にはいろいろあります。
日々医療は進化しています。
もっと最良の治療法や薬ができれば選択肢も増えるでしょう。
しかしまだ今は、三大治療法なのか、代替え療法なのか?選択をしなければなりません。
実際に、その選択をした後に、志半ばに死んでいった人たちが残した言葉というのはそんな迷える人たちの光になるような気がします。
誰にでも選択を迫られるときが訪れる可能性はあります…。
そんな先人たちの残してくれた道しるべに気づき、悔いのない選択をしたいものです。